雪うさぎ




「もう、秋ねえ」

 そう呟いたのは菜絵(なえ)のお母さん。

 大きな窓から見える紅葉が綺麗な街路樹を眺めて無意識の内に出た言葉だと思う。

「そうですね。そろそろコートがいりますよね」

 黄色に染まった街路樹はさらさらとその花弁を降り散らして季節の変わり目を訴える。

「あら絢(あや)ちゃん、まだコートは早いわよ?」

 菜絵のお母さんは口の端を上げながら私を振り返った。

 年よりもずっと若く見えるお肌のつやは、遥かに年下の私でも憧れるほど。

 そんな綺麗な笑顔につられて私の口の端も自然と上がる。

「それでも、もう朝晩は寒いですよ。朝の電車とかでも結構コート着てる人みかけます」

「あらそうなの」

 菜絵のお母さんは心底不思議そうに口許に手を添えた。

「……季節って、なかなか気が付かないものね」

 また、窓をみやる。

 そんな毎日。

「そう、ですね……」

 私は目を伏せた。

 もう、この人の目をまっすぐ見ることはできない。

 何も知らないから。

 何も見ていないから。

 だから目の前にも気が付かない。

「……最近は日が落ちるのが早いので、私は先に失礼しますね。また明日来ます」

 やっと絞り出たかすれた声に内心驚きながら菜絵のお母さんに背を向ける。

「あ、もう帰る? それなら明日学校で菜絵によろしくね」

 よろしく……。

 背中に掛けられた言葉がこんなにも辛いなんて。

「…………」

 今度は声が出なかった。

 自分でも分かるほど引きつった笑顔を作ってから軽く一礼して部屋を出る。

 人の往来激しい廊下に出ると、何かにすがりたくて泣きそうになった。

 だけど、そんなことはできない。

 私は誓ったから。

 菜絵に。



    *   *   *



 今度の入試で受ける学校が決まった頃、普段はメールをしてこない菜絵がメールをしてきた。

 二つ折式の携帯電話を広げると、たった一言だけ綴られている。

『私、入院するの』

 菜絵が昔から何か重い病気にかかっていた事は知っていた。

 私と菜絵は物心つく前からの友達だから。

 そして、私が菜絵の病気の詳細を知った頃、菜絵は入退院を繰り返すようになった。

 だから今回も驚かない。

 その時はいつものように入院の時期と期間を聞いて連絡は終わった。

 何も変わらない。

 ただ違う事はメールをしてきた事。

 いつもは直接私に話すのに。

 その時は感じない。

 何も変わらない。



    *   *   *



 しゃくり、しゃくり。

 大地にしんしんと降り積もる白い結晶を手で仰いで普段とは違った冷たい地面の感触を確かめる。

 いつもの学校、いつもの帰り道。

 あれから一月。

 これは私の日課になった。

 空を見ていた目線を少し落とすとその双肩にしっかりと雪を積もらせた巨大なコンクリートの建物。

 これは、菜絵がいる病院。

 私は学校帰りに毎日ここに通っている。

「あ」

 空をもう一度見上げ、雪が積もっているところで寄り道をしてから建物の中へ入り、もう慣れた道順を足早に歩いて目的の部屋へ。

 引き戸を開けると二つのベッドとその間に一つの質素な丸椅子。

 丸椅子にはいつも先客がいる。

「あら、絢ちゃん。こんにちは」

「こんにちは」

 菜絵のお母さん。

 年下の私が憧れる肌つやと美貌を持った菜絵のお母さんは薄いパジャマを纏っている。

「そんな格好してると風邪引いちゃいますよ」

 手に持っていたお土産を近くの棚へ置き、小走りで近づいてその細い肩に上着を掛けてあげると、菜絵のお母さんは私の手をそっと握った。

「絢ちゃん、お見舞いいつもありがとうね」

 と、微笑みかける。

 その微笑みに私は泣きそうになる。

 お母さん、私は何もしていません。

 だからそんなに笑わないで。

「いえ……」

 だめ。

 この人の前では。

 でも、私の表情は彼女には見えていない様子。

「もう。菜絵ったら、実のお母さんのお見舞いにも来ないなんて」

 もう、と頬をふくらませる。

 その表情が自然で。

 とても自然で。

 だから私は代わりに泣きそうになるんだ。

「……そんな事、ないですよ。きっと菜絵も、心配……してますよ」

 私の口だけが機械のように動く。

 もう、耐え切れなかった。

 視界が霞み、目が潤み、目頭が一気に熱くなり、何かが頬を伝った。

「心配、してますから……早く病気、治しましょう?」

 最後の抵抗で菜絵のお母さんには顔を見られまいと真後ろへ回る。

「ええ、そうね。早く家に帰らなきゃね」

 もう、私の口から言葉は出なかった。

 こくこくと大きく頷く。

 拭っても拭っても溢れてくる頬を伝うものを必死で拭うと、看護師さんが扉から顔を出す。

「お母さん、検査の時間ですよ」

「はーい」

 菜絵のお母さんは、じゃあまたね、と軽く手を振り部屋を出て行った。

 後に残されたのは私。



と、菜絵。



 隣のベッドに横たわる菜絵を見る。

 涙で目が霞んでよく見えないけれど、目を閉じて穏やかに眠っているみたい。

 その口許には酸素呼吸器がつけられ、腕からは太い点滴が繋がっている。

「生きてないよね、生かされてるよね」

 いつもは明るい菜絵の言葉が聞こえてきそうで、さらに目から涙が伝う。

 この菜絵に毎日話しかけてもう一月。

 季節はすっかり変わってしまった。

「ねえ、菜絵」

 かすれた私の声。

「今日はね、雪が沢山降ったの。だからお土産」

 先程棚の上へ置いた小さなお盆に乗った雪の塊。

 それに、一緒にお盆に乗っていた葉や、南天の実をつける。

「ほら。雪うさぎ……」

 菜絵に見えるように顔の横にお盆を置く。

 以前は血色の良かった菜絵の肌も、今は横に並んだ雪うさぎのように青白い。

「菜絵、雪大好きだったでしょ……?」

 一度は落ち着いたものの、また視界がぼやけてくる。

「また……一緒に、外へ行こうよ。ねえ菜絵」

 とめどなく流れる涙を抑えることはできずにそのままベッドへ顔を伏せる。

 外に聞こえるのもはばからず、私は声を上げて泣いた。



    *   *   *



「絢」

「なに?」

「私ね、また入院するんだ」

「今度はどれくらい?」

「…………。今回は長くなりそう」

「えー。学校はどうするの?」

「うん。話はしてあるから」

「そっか」

「でね、今回で入院は「さいご」になりそうなの」

「最後? もう治るの? 良かったじゃん」

「そう、さいご。だからさ、うちの母さんを頼んでいい?」

「?」

「私の母さんの話し相手になるだけでいいからさ」

「うん。いいよ」

「ありがとう」

「話ならいつもしてるじゃん。何、今更?」

「うん? 何でもない。これから入院するからさ、一応ね」

「それならいいけど……」

「あと、今回は長くなるけど、絢泣くなよー?」

「泣かないよ!」

「私の手術のときでも泣いたらしいじゃん?」

「あれは……っ!」

「隠さない隠さない。泣き虫は卒業しな、ね?」

「分かってる!」

「分かったなら、よろしい。……あ、雪降って来たよ?」

「本当だ、寒くなったね」

「そうだね」



「この雪、この次も見られるのかな……」
 




 最期に一緒に外へ出た日。

 菜絵の最期の呟きは私には聞こえなかった。













―了―
あとがき