既視と幻視の境界線




 見たことのある光景が浮かぶ。

 見たはずのない風景が見える。

 見覚えのない懐かしい情景。

 俺を襲う感覚。

 ――――それは既視感だ。

 誰かがそう教えてくれた。

 日常で忘れている感覚。ふとした拍子に戻ってくる。

 明確な何かがあるわけではない。ただ何気なく友と言葉を交わしたとき、ただ何気なく周囲に目を向けた時、ジワリと心に沁みるのだ。

 曖昧なのに不変。変わらないから直ぐにあの感覚だと気付く。

 じわりじわりと俺の中に沁みこんで来る。

 既視感。

 そうでなかったらなんと表現すればいいのか、俺はわからない。





「・・・き、おい! 水希!」

 肩を叩くように揺すられて、意識の奥から浮上した。ふと気付いた瞬間、目を夕陽の斜陽が刺した。眩しさに呻くと俺を現実世界に引き戻した友人は小馬鹿にしたように笑った。

 いつもつるんでいる友人四、五人と放課後の教室で屯する。ちょうどゲームに負けた奴が買い出しに行って戻って来た所だった。俺は自分で言うのもアレだが、トランプは結構強い。今のところ無敗を誇っている。トランプでは。

 奢ったことが無い訳ではない。残念ながら。

「あ、ま〜た水希が妄想世界に飛んでんぞ」

 仲間の一人が茶化す。俺がよく自分の世界に篭っていて、呼びかけに答えないことが多いから、そんな不名誉な言われ方をするようになった。

「バーカ、違ぇよ」

 いつもの台詞に、俺はすかさず返す。

 答えた瞬間、ずんとあの感覚が胸に落ちた。

 俺が、俺以外の誰かが、いつかこの言葉、この状況、言ったことがある、見たことがある。

 違う。

 俺は首を振ってその感覚を、否定した。

 違う。よくある光景だ。毎日繰り返している風景だ。馬鹿なこと言ってきた友人。俺も軽い言葉で言い返す。前にも言ったことがあるだけ。本当にあったことだ。

 これは、あの感覚じゃない。

 否定するその胸の内の言葉すら、既視感へと変貌する。手が届きそうで届かない記憶。何をどうやっても見えないのに、何をどうやっても消えない。

 この感覚は嫌いだ。

 目の前にある景色がはじめてみた筈なのに、何故か懐かしい。まるで俺が何か大切なことを忘れているような、記憶を失っているような、誰かの後を辿っているような気分になる。

 そして、そのことを忘れている俺を、おれ自身が責めているような、不愉快な、不毛な罪悪感に捕らわれる。

 昔はそんなこと思いもしなかった。むしろ既視感とかいうものを、一生に一度は体験してみたいと思っていたくらいだ。その感覚が嫌になったのは、あのせいだ。きっともう直ぐ来る。既視感と一緒に俺を苛みに来る。

 ジワリ、と視界の端にここではないどこかの風景が滲む。

 ほら、来た。

 ここではない場所。

 まるで、俺の目に穴が開いたみたいに。穴が開いているのが、現実の世界なのか、それとも穴の向こう側に見えるのが現実の世界なのか、わからない。

 日増しにその穴は大きくなっている。確実に俺の世界を寝食している。

 はじめは左端に見えたほんの小さな汚れ。それが、今は左目を覆い隠そうとしている。そうしてしばらく俺の世界を蝕んだあと、ふとした拍子に消えてゆく。

 もし、今目の前にある世界の変わりに、向こうの世界が見えるようになったら、どうなるのだろう。まともに生活できるのか。そもそもその時まで、俺は正気を保っていられるのか。

[ぺチ]

 間抜けな音と一緒に、頬を氷のように冷たい物が触れた。反射的にそれを振り払って身を引くと、目の前に俺の頬に触れた手があった。その先を辿れば、スナック菓子が広げられた机の向こう側に、こちらを真っ直ぐに見返す顔がある。

 暫くその顔を見返していたが、あまりに真っ直ぐに俺の目を見てくるので、居心地が悪くなって目を逸らした。

 そして気付いた。

 視界の中に染み出していた景色が消えた。唐突に。驚いた拍子に地に足が付いた。というか、叩き落されたという感じだ。

「な、なんだよ」

 本当は現実が目の前に戻ってきたことが嬉しくて仕方がなかったが、俺の心情も俺に起こっている気ことも知らない奴らの前で、そんな様子は見せられない。幸い喜びを押し殺して出した声は、いい感じに震えてくれた。

「さわった」

 とても単純不明快な答えが返ってきた。

「だから、何で触ったんだよ」

「見えなかった」

「いや、見えてるだろ」

「たつやん、相変らず意味不明だなぁ」

 俺と同じく驚いていた友人の一人が、独り言のように呟いた。

 たつやん、勿論あだ名だ。そんな名前の日本人はいない。

 唯一のおごり知らず。一番になることはあまりないが、ビリになることもない。スゴロクの達人。強烈な天然。意味不明。並べれば沢山ある。

「たつやんはやめろ」

 たつやんこと辰也は、少し怒ったように言い返したあと手を退き、そのついで机の上のポテトチップスを一枚口に運んだ。

 小学校の頃から時たま顔を見かけることはあったが、まともに言葉を交わしたのは高校で同じクラスになってからだ。入学した日、話す相手がいなくてたまたま見知った顔に目がいった。それだけのことだ。少し変わっている友人。

「たつやんもそうだけど、最近、水希も妄想世界に飛んでるしな」

「妄想世界ってなんだよ。お前と一緒にすんな」

 友人の話題は直ぐに別のことに移っていく。

 いつもと、なんら変わらない取り留めのない会話。客観的に見てしまうと酷くくだらないのだが、そんな日常の中に確かに俺はいる。

 辰也の言葉を反芻する。

「俺は見えてるよ。見えちゃいけないもんまで」

 存在しない景色まで、はっきり見えている。

 俺の呟きは、談笑する友人の声で掻き消えた。元より聞かせたいわけじゃない。聞こえたら逆に困る。だが、言わないのも苦しかった。理解者は誰も居ないが、口に出さないと自分の仲で整理が付かない。

 そうでもしないと、この答えの出ない悩みとやっていけない。

「・・・幻視」

 ポツリ、と小さく呟かれた言葉に、俺は顔をあげる。まるで、俺の呟きに答えるかのようにして聞こえた言葉。みんなは、昨日のバラエティー番組について話していて、呟くようなテンションの奴も、そんな単語が出てきそうな顔をしている奴も居ない。

(ゲンシ? 原始? 原子・・・じゃないよな)

 聞いた瞬間に、それが答えだと強く感じたのに、答えはするりと俺の思考をすり抜けて言ってしまった。

「そんなことより、水希も早く食べねぇとなくなるぞ」

 唐突に話を振られ、俺は促されるままに手を伸ばす。

 ジワリ、また視界に滲む。

 たちまちに広がって左目を覆う。

 目を引く色の包装紙。その上に広がる菓子。

 伸ばした手が、恐怖に固まる。

 やめてくれ。俺の世界を侵さないでくれ。

 見たことのない景色が襲う。

 現実か現実でないのか分からない景色が、俺の世界を塗り替える。

「辰也、帰るぞ」

 鞄を持って立ち上がる。勢いで椅子が倒れた。

 目の前の景色を振り払おうと思ったのに、寧ろその光景は広がった。

「あれ、水希もう帰んの?」

 帰り支度を始めた辰也の向こうで、友人が声を掛けた。

 やめてくれ。俺に話しかけないでくれ。

 既視感が広がるから。

 俺の現実が消えるから。

 俺の幻想が消えるから。

 もう、これは既視感じゃない。既視感なんて、生易しい代物じゃない。だが、俺はこれをなんと表現すればいいのか分からない。

「ん、ああ。俺のり塩嫌いなんだよな。青のり前歯にくっつくから」

「くだらねぇよ! そんな理由で嫌ったらのり塩が可哀想だろ?!」

 人の言葉が怖い。

 会話をするのが怖い。

 人と交わした単純な言葉一つで、この感覚が引き起こされる。

 俺は適当に誤魔化して、教室を後にした。

 辰也は律儀にも後を付いてきた。駅までは十分ちょい。さほど遠い道の地ではない。

 だが、視界の半分が塞がれた状況でその道のりはかなり遠く感じられる。

 そもそも、教室から生徒昇降口にたどり付くのだって、階段から足を滑らせないようにするために手摺が手放せなかった。 ちらりと、視界の端で誰かが動き、そちらに目を向けるが、それがはみ出してきた向こう側の世界でのことだったことに気付く。

 人が、人が見えるなんて、今までなかったことだ。

 その人物が、俺に向かって何か語りかける。

「・・・」

 言葉は俺には届かないが、その僅かな空気の振動は確かに俺の鼓膜を振るわせた。

 本当は、今すぐ叫びだしたい。

 逃げられるものなら逃げ出したい。

 俺の世界が崩壊している。俺の現実が壊れている。

 だが、これを誰にどう説明すればいいのだろう。い全てを諦めて精神病院にでも行くべきか。

 じわじわと今でも向こう側の景色は俺の視界を浸蝕している。

「水希」

 俺は頭が可笑しくなってきている。そんなこと自分でも分かっている。だが、そんなこと誰に言える。俺はまだ普通の人間で居たい。

 まだ、この日常を捨てたくない。

 だが、目が見えなくなったらそんなこと言ってられなくなる。もし、聴覚まで奪われたら俺はもう普通ではいられない。

 視覚が徐々に蝕まれたように、今度は聴覚も徐々に奪われていくのだろうか。

「水希!!」

 怒鳴り声で俺は我に返った。だが、直ぐに幻想の世界に引き戻されそうになる。俺は右目だけの不自由な視界で辰也の顔を見た。

 辰也の訝しがるような、責めるような目を見ていると、自分の思考が周囲に流れていたのではないかと不安にさせられる。「なんだよ、いきなり」

 辰也の顔は半分しか見えない。もう半分はどこか別の景色が塞いでいる。

「話すときくらい人の目みろよ」

「見てるだろ」

 本当は見ようとしても見えないけどな。

 心の中で皮肉のつもりでそう付け足す。

「見てない」

 そう断定するように言い放った辰也の言葉に、ぎくりとする。確かに見てない。だが、それは他人から見てもはっきり分かってしまうのだろうか。

「な、何言って・・・」

「水希、最近俺たちのこと全然見てない。全然人の話も聞いてない。いつも上の空だ」

 仕方がないだろ。見えないんだから。それどころじゃないんだ。

 人の話をいちいち聞いていたら、いつこの世界が見えなくなるか分からない。どうすればいいのか考えても分からないのに、考えざるを得ない苦痛。

 お気楽な、ごく普通の人間に、頭の可笑しい俺の言葉なんて分かるわけがない。

 分からないくせに、煩い。分からないくせに。勝手なことをいう。

「相変らず意味不明だな」

 これで辰也が怒ればいい。怒って今すぐここから立ち去ってくれればいい。俺のことを見ている人間が居る限り、俺は自由にこの感覚と戦えない。

「お前まで、意味不明とかいうな」

 怒るどころか、傷ついたような顔をする辰也に苛立ちが募る。

 俺は、まだこの日常に居たいだけなのに、邪魔をする。

 そんなに、俺に消えて欲しいのか。

「そもそも、お前っていちいち理解に苦しむことばっかりするよな。変人にも程があるだろ。付き合ってられない」

 突き放すように。もう構わないように。嫌われるように言った。酷いことを言っていると自分でも分かっている。言っている途中で、冷静を取り戻した理性が、やめろと喚くが、途中で言葉を引っ込めるような、無様な真似も出来なかった。

 辰也が悪い。俺はすぐさまここから立ち去りたいのに、くだらない事をぶつぶつといい続けるから。

 だって、下手なことを言って病室から一生出られない生活を送るようになるのは、俺だ。どんなに意味不明なことを言っていても、辰也は普通の人間だ。辰也は普通でいられる。

 いっそ全て話してしまえたら楽なんだろうが、そんなことをいう勇気はない。

 辰也は妙に敏いから、俺がいう事を分かってくれるかもしれない。だが、だからこそ言いたくない。理解するってことは、俺が以上だと分かってしまうってことだ。

 踵を返して、先に進もうとしたが出来なかった。それどころか腕を強くつかまれ引き戻された。

 辰也の形相に、一瞬殴られるかと思ったが、胸倉をつかみあげられただけだった。それでも半分しか目の前が見えない俺には、かなりの恐怖だった。目の前のことに集中しようとしても、もう半分でちらちらと動き回る誰だかわからない人物が気になって仕方がない。

「目の前の現実も見れない奴に言われたくない」

 頭に血が上った。

 何が起こったのかわからなかったが、急に解放されて地面に倒れた。

 目の前には驚いた顔をした辰也が、同じ様に倒れていた。

 その頬が赤くはれ、唇から血が流れているのをみたとき、俺は辰也を殴ったのだと気付いた。

 乗り遅れた感情が、徐々に現実に追いついてくる。

 一度追いついてしまえば、その後はあっという間で、乗り遅れた分を取り戻すかのように、それは頭の芯を麻痺させながら、激しく噴出してきた。

 まるで、俺が悪いかのように言う。俺が逃げているように。

 見たくなくて見てないわけじゃない。

 誰が、望んでこんなものを見たいとおもうのだろう。

 本当は向こうの世界が現実だったら、向こうの世界で俺は頭が可笑しい人でいることになるし、こっちの世界に居続けようとしても普通ではいられなくて、俺は向こうの世界に行くことも出来ない。

 俺は普通でいたいだけなのに、普通じゃない。

 見たくても見れないものを、どうやってみろというんだ。

 見えないのは、俺の所為みたいに、言うな。

 俺が、俺が悪いんじゃない。

「どっちが現実か、わかんねぇんだから仕方ねぇだろ! 見えないんだよ。どっちが現実なのか。どっちに居ればいいんだか!!」

 考える前に叫んでいた。

 馬鹿な事を言ったと、叫んでから後悔したが、もう遅かった。

 辰也の目が、さっきとは違った種類の驚きで塗り潰されていた。

「・・・んし」

 俯いた辰也が、呟いたが自分の鼓動が煩すぎて聞こえなかった。

 どこまで俺が言った事を、理解したか分からないけど、こうしている今でも、向こうの世界は俺の世界を浸蝕している。いつ辰也の顔が見えなくなってもおかしくない。

 そんな状況で、どうやって目の前のものを信じろというんだ。

 どう扱えばいいのか、分からないんだろ。

 目の前のものは、既に辰也がいるこの世界じゃないというのに。

 辰也の腫れ物を見るような目が酷く癪に障る。俺は頭がおかしい奴だとようやく気が付いた顔をして。

 だから、付き合ってられないんだ。

 助けてくれないんなら、せめて放っておいてくれ。

「俺が何を見てようと、お前には関係ないだろ。いちいち干渉するな」

 ずるり、と視界が向こう側の世界に覆われた。始めてみる景色。だが、いつも見ていた景色だ。

 どこか懐かしい。

 あんなに怖れていたのに、意外とすんなり受け入れてしまっている自分がいた。

 未練だった物を、切り捨ててしまったからだろうか。だがああでも言わないと、自分はいつまでも手放してしまった物に、固執し続けるだろう。

「だったら、居たい方にいればいい」

 辰也の声が割り込んできた。

 辰也なんかに言われなくても、俺は行きたい方に行く。そもそも、俺に決定権なんかない。流された方に行くだけだ。

『何ぼーっとしてんのサ』

 見知らぬ誰かの声が割り込んできた。

 見上げるとそこには、つかみどころのない笑みを浮かべる人物が佇んでいた。余計なことを聞いてこない、ただ声だけ掛けてそこに立っている。

 辰也なんかよりよっぽどましだろ。こっちの方が。

「俺はただ」

 まだ言い足りないのか、鬱陶しいやつだな。

 辰也はそこで言葉に詰まったようだった。既に辰也の顔なんて見えなくなっている俺に、あいつの様子は説明できない。

 耳を塞いだら聞こえなくなるだろうか。

 それで楽になるのなら。もう既に俺は狂っているのなら、そっちの方が楽かもしれない。

「現実とか、よく分からないけど、水希が居なくなったら、困る」

 霧が晴れるように、目の前の景色が少しずつ薄れて辰也の顔が見え始める。

 今まで目の前に立っていた誰だかわからない人物は、小首をかしげた。

『あれ、もう帰っちゃうの』

 少し残念そうに彼は問いかけてきた。

(馬鹿が行くなって言ってきたので)

 口に出して、本人に言うのも恥かしく俺は心の中でそう答えた。これで彼に言葉が通じなかったら、どうしようかと思ったが、聞こえたようで、彼はぐずるように不平の声を漏らした。つかみどころもないが、年齢不詳な人だ。

『ま、しょうがないか』

 彼がそういったあと、向こう側の世界は休息に薄れる。そして最後に意味深な笑みを見せたあと、彼と世界は消えた。







[ペチ]

 冷たい手が頬、そして首筋に触れて俺は仰け反った。

「ぅおわっ!!」

 思わず叫ぶと、恐る恐る俺に向かって手を伸ばしている辰也が居た。

「なんだよ」

「さっきのお返しだ。現在進行形で痛い」

 確かに、時間を置いた辰也の頬は腫れてきている。自覚はなかったが結構な力で殴ってしまったらしい。

「悪い」

 何が自分に起こっていたのか、何を辰也は知っていたのか、分からないが助けて貰ったのだとそれだけは何と無く分かった。

 随分酷いことを言ってしまったと思う。それに対しても謝りたかったが、つまらない意地が言葉を封じ込めていた。

「ジュース奢ってくれたら許してやる」

 辰也は屈託のない笑みを浮かべて笑った。





 見たことのない景色が見える。

 見たはずのないものが見える。

 存在しない筈のものが見える。

 実在しない筈なのに、実際に俺を苛んでいた世界。

 ――――それは幻視だ。

 辰也がそう教えてくれた。

 あれ以来、俺に幻視は訪れていない。












―了―




望月 鏡翠様から、我がサイト2周年をお祝いして素敵短編を頂いてしました!
私、自分のサイトが2周年なのに何もしていませんが……(汗)。
自分でも忘れていた記念日にサプライズをけしかけて頂いて本当にびっくりですー♪

それも私の大の苦手な心理描写です……!
素晴らしいっ!
本当に羨ましいです、人の心理が書ける方。
望月様、素敵な短編、本当にありがとうございますね!
いつか……いつかお礼をば致しに参ります故しばしの間お待ち下さいませねー!
 




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