一章 「静かなる覚醒」 壱




―――……すい、りょくすい……おい。緑翠!」

 はっと目を覚ます。目の前には、ざんばらに切った黒髪と、漆黒の中に朱が入った瞳。

「今は仕事中だぞ。移動中でも居眠りはするなと言っただろう」

 小さくため息をついて隣の席へ座る。

 緑翠と呼ばれた者は回りを見回した。

 ここは列車の中。金属と金属の擦れ合う音が車内に低く断続的に響いている。

 向かい側の窓からの景色は何も特別なものなどない、田園風景が広がっていた。

 目の焦点を変え、自分の姿を窓に映し出す。

 先程まで眠っていた為か、眠たげな目をした十四、五歳の少年が見える。

 髪は短い黒髪。瞳の色も黒だが、少々緑色が混じっていた。

「緑、返事くらいしろ」

 隣で苛立った声。

 彼は緑翠の相棒で、名を蒼梧(そうご)と言う。

「分かったよっ」

 わざとぶっきらぼうに返事を返す。

 隣に座る蒼梧の年の頃は十七、八。

 近頃は共にしている時間が長い所為か、兄弟に間違われる時もある。

 その二人が出会ってから一年が経ったが、互いに出会う以前の事は全く気にせずにいた。

「…………」

 ちらりと蒼梧を横目で見てから、車窓から流れる景色に目を移してみる。

 段々と田園風景から住宅地に景色が変わり、数多くのビルが佇むオフィス街で列車は止まった。

「ここが今回の俺達の仕事場だ」

 蒼梧が緑翠に声を掛ける。が、その前に緑翠は外へ出ていた。

「こんな町、初めてだ!」

 周りの目も気にせず叫び、目を輝かせて辺りを見回す。

 二人が住む家は奥深くの山の中にあり、その周りに集落が点々としているだけの場所にある。

 人も建物もあまり見かけない為、緑翠の興奮は最高潮に達していた。

「蒼梧、早く早く!」

 現在は陽も頂点に達し、昼時を伝えている。

 人はまばらなものの、近くを通りかかったサラリーマン風の男性に奇異な目で見られた。

「……緑。少し静かにしてろ」

 ため息をついて少し声を落とし、諭すように言う。

 その表情を見、分かっているのか分かっていないのか、緑翠は笑顔で黙って大きく頷いた。

「ここから歩いてすぐの所に今日の仕事の相手がいる」

 声の音量はそのままに相棒に声を掛け、近くの時計を見る。

「丁度いい時間だな。相手に話はしてあるから……」

 横を見るが、今まで緑翠がいた場所には当の本人はおらず、代わりに今にも好奇心のまま歩き出した緑翠が視界の端に映る。

「緑! うろうろするなと言ったろ?」

「えー? だって……」

「えー、じゃない!」

 まだ挙動不審な態度の緑翠の腕を引き、改札口へ向かった。



    *   *   *



 駅から地図を見ながら徒歩で二、三分。

 程なくして大豪邸が姿を現す。

「……ここが?」

 豪邸の門の前で蒼梧が立ち止まったのを見て、緑翠は尋ねた。

「そうだ」

 地図を確認していた蒼梧も顔を上げて豪華な邸宅を見上げた。

 途端、緑翠の目の輝きが増す。

「すごーいっ」

 好奇心と感嘆に満ちた歓声を上げ、緑翠の倍ほどある格子状の門扉の間に顔を擦り付ける。

「御山の方が狭いね」

 唐突な言葉に、蒼梧は表情に疑問符をつけた。

 それを感じ取ったのか、緑翠は「だってさ」と言葉を継ぐ。

「ここが家なら、御山の屋敷と比べたらこっちの方が凄く広いんじゃない?」

 緑翠の言う「御山」は二人の住んでいる場所の事だ。

 「御山」には二人だけではなく他にも沢山住んでおり、二人を含めた「御山」に住む全ての者をまとめているのが、蒼梧の父でもある統領と呼ばれる存在である。

 そして「御山」に住む者は、統領から全て屋敷と呼ばれる長屋で部屋は違えど寝食を共にする。

 その屋敷も一つの山の殆どを占めているので、勿論通常の民家に比べるまでも無い広さを持つ。

 蒼梧は「御山」と今眼前に見えている屋敷を見上げながら「そうかもしれないな」と頷いた。

 豪奢な屋敷に視線を捉われていたが、本来の目的を思い出した蒼梧は緑翠を小突く。

「緑、ここには仕事で来たんだ。時間も無いし、遊んでいる時間はないぞ」

 空に輝く太陽でおおよその時間を確認し、小突いても反応のない緑翠を無理矢理門扉から引き剥がす。

「えー? もうちょっと見てようよ」

「そんな時間は無い」

 少年の甘えをぴしゃりと遮ると、迷わず門扉の近くにあった呼び出しのベルを押す。

 まるで重厚な楽器でも鳴らしたかのような音が響き、間もなくベルの近くから男の声がした。

『どちら様でしょうか?』

「先日会長から依頼を頂き、本日この時間にお会いするお約束をしている者です」

『少々お待ちくださいませ』

 それきり男の声は聞こえなくなり、再びこの場には二人の存在だけになる。

「ふう……」

 慣れない敬語で短い言葉ながらも気力を使った蒼梧は小さく息をついた。

 その横から、肩の辺りを突く感触。

 この場には二人しかいないとすると、必然的に犯人は決定した。

「何だ、緑?」

 犯人の方を振り向くと、いつもの表情とは違い、少し首を傾げている。

「かいちょう、って何? 誰?」

 緑翠の疑問に「ああ、そうか」と何かを思い出し、手を一回叩く。

「そういえば、緑には言ってなかったか」

 肩に下げている鞄から手の平大の紙の束を取り出し、緑翠に手渡す。

「会長というのは簡単に言えば企業などをまとめている人の事を言う。今回の依頼人は沢山の企業を一人でまとめてるこの国や街でも重要な人だから、くれぐれも失礼のないようにな」

「ふーん」

 緑翠の手の中にある紙の束には今回の依頼人の氏名や簡単な役職が書かれており、その中にはこの国でも知らない者などいない程有名なホテルの名や巨大なグループ企業の名を連ねている。

 その総括の会長が今回の依頼人だという。

「……本当に分かったのか?」

 文字を追うことに集中している緑翠には、蒼梧の小さな呟きは届かなかった。

「うーん。よく分からないけど、偉い人なんだよね?」

 やっと目を離し、蒼梧へ資料を返す。

「そうだ。それだけは理解したな?」

「うん、分かった」

「なら、いい」

 緑翠から受け取ったそれを鞄へ仕舞いこむと、丁度門扉より遠く離れた玄関から使用人らしき人物がこちらへ向かってくる。

「あ、ちょうどお迎え来たみたいだよ?」

 明るい声で使用人に指を差す。

 蒼梧は無表情でその指に自身の手を被せた。

「指を差すな。……仕事の始まりだな」







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